《会誌発行のお知らせ》
しんあいち歴史研究会では毎年度、3回会員相互の研鑽の場として会誌を発行しています。今回95号を10月下旬に発行しました。以下は会誌の表紙と目次になります。今回も興味あるテーマがそろいました。会誌は会員全員に配布されます。なお、会員以外の方の投稿も受け付けています。


☆令和8年2月学習会
「入鹿池と愛知県の誕生」
1・日本第二位の農業ため池「入鹿池」の誕生で尾張藩は新田開発し、7万8 千石高を増加した。また、幕末、大雨が続き入鹿池が決壊「入鹿切れ」で地域の影響は?
2・廃藩置県で303県(藩の数)を集結して47都道府県になる経緯と名古屋県でなく、愛知県になった誕生の謎は?
①木曽川の氾濫で治水を願う尾張北東部農民や尾張藩と新田開発計画は進み、入鹿池の建築が入鹿六人衆で発案、堤防は河内国から甚九郎の「百閒堤」という技術で作り入鹿池は完成した。尾張藩の総石高は慶長13年(1608年)47万2千344石(備前倹地)あり、実際は57万一千737石余あったといわれており、新田開発は寬永16年(1635年)から始まりその後、入鹿新田石高7万8千435石余で、増加率16,6 %と貢献した。さらに木曽川から木津用水を1650年(大山城北より取水)建造したが、新田開発は財政を圧追。初代尾張主「徳川義直」でした。その後、「木津用水」は木曽川治水事業「濃尾用水」・「愛知用水」につながっている。また、小牧市には新田と付く地名があり、入鹿出新田(入鹿池に住んでいた人が移転した) 、小牧原新田。間々原新田、河内屋新田(河内から堤の工事で来た人に褒美として新田を開発させた)その時、新田開発した地名が残っています。明治4年(1871年)11月廃藩置断行3府302県(一使)から3府72県になり、明治21年(18880年)1道3府4 3県になった。また、県庁所在地が県名と一致しない県は全国にいくつある?例えば、名古屋市―愛知県、大津市一滋買県、金沢市一石川県、松山市一愛媛県などあります。なぜでしよう。解明していきたい。
記
開催日
令和8年(2026年)
2月22日(日)
場 所
名古屋市中区金山1丁目5番1号
日本特殊陶業市民会館
2F 第1会議室
時 間
開場 午前9時05分
開演 午前9時15分
終了 午前11時55分
会 費 会員500円
ビジター500円
申込方法
①事前に事務局に手渡し ②事前に ハガキ、メール、TELLで申し込み
申込み先
446-0044
安城市百石町2-19-7
山本京子 気付
しんあいち歴史研究会事務局
締 切
資料印刷の関係上開催日10日前とさせて頂きます。
☆令和8年3月研修会
「菜の花咲く渥美半島の縄文遺跡と渥美窯跡、そして豊橋吉田城を訪ねる」
黒潮洗う東三河地方の沿岸部は、温暖な気候で、中央構造線が走り、そして、日本中央部に位置しています。この地方は、特徴のある地理によって特徴づけられた興味深い歴史推移があります。令和8年3月の研修会では、この地方の特徴ある史跡をいくつか取り上げて探訪します。取り上げるのは渥美半島の縄文遺跡と渥美窯跡、そして、豊橋にある吉田城です。
菜の花咲く、桜の咲き始める春の渥美半島の田園地帯、そして水温む三河湾沿岸を通り、探訪したいと思います。
縄文貝塚
縄文時代、渥美半島の三河湾沿岸は、豊かな海産物に恵まれ、多くの人々が暮らしを営んでいました。中央構造線は、豊川に沿って信州に伸びています。また、渥美半島の先端から伊勢湾を抜けて吉野川に沿って紀伊半島を横断しています。渥美半島の縄文の人々は丸木舟を漕いで三河湾、伊勢湾を盛んに航行して遠方との交流を行っていました。近年発掘の進んだ吉胡貝塚、渥美半島先端部の保美貝塚を訪問し、出土した遺物・遺構等を見学しながら当時に思いを馳せたいと思います。
渥美窯跡
渥美窯は、猿投用の山茶碗を焼く窯が渥美半島に伝わり、生産が開始され、12世紀初め頃(平安時代末期)から13世紀末(鎌倉時代)まで生産が続いています。陶土は砂質で、登り窯を用いて焼成し、青みがかった灰色色調を特色としています。碗、皿、鉢、瓶、壺、甕などの日常雑器のほか経筒や蔵骨器などの祭祀容器、漁具、瓦なども生産されました。海上輸送や陸上水運を通じて各地に運ばれ分布をしています。
渥美窯の遺物を展示した渥美郷土資料館、渥美窯の遺跡である皿焼き古窯館、東大寺瓦窯跡を巡り、往時の渥美窯の繁栄を偲びながら、なぜ中世に途絶してしまったのかを考えたいと存じます。
吉田城跡
戦国時代、豊川の本格的な治水が始まり、東海道の交通の要衝を抑える吉田城が豊川の辺に築かれます。1505年に、一色城(豊川市牛久保)の城主であった土豪の牧野古白(こはく)は、今川氏親(うじちか)の指示を受けて豊川の左岸に今橋城(吉田城)を築きます。そのころ西三河で勢力を伸ばしていた松平氏に備えるためでした。その後、豊臣時代に吉田城の主となった池田輝政によって現在に残る規模の吉田城が整備されました。江戸時代になると、徳川の親藩・譜代の大名が入れ替わり統治することになります。
この研修では、最初に吉田城を訪問し、今に残る、築城当時の遺構、池田輝政によって整備された遺構等を巡り当時を偲びたいと思います。
豊川用水
この研修の最後の訪問地は、渥美窯跡として残る、伊良湖にある東大寺瓦窯跡です。そこに隣接して、眺望の素晴らしい豊川用水のために現代に造られた初立池(はったついけ)があります。豊川用水の完成・利用によってこの渥美半島地域は全国有数の農業生産地域となりました。
その素晴らしい発展を支えている豊川用水についても、訪問したご縁を得て学びます。
なお、昼食は「田原めっくんはうす」において、「潮騒弁当」を用意しています。田原でとれた物産のお買い物もできます。多くの皆様のご参加をお願いします。
記
1日時 令和8年3月22日(日)
2.集合場所 金山総合駅 イオン金山店前 午前7時50分集合・出発
3.費用 会員 10,000円、
ビジター 11,000円
4.申し込み方法:下記申込書を事務局に事前に手渡し、又はハガキ、メールで申込み
5.送付先 446-0044 安城市百石町2-19-7
山本京子 気付 しんあいち歴史研究会事務局
尚、締め切り日は 令和8年3月12日(準備の都合上、10日前とさせて頂きます)
☆ バスの席が定員になり次第締め切りとします。
☆ 自己都合により当日取りやめた場合は、後日2,000円を申し受けますので
ご了承願います。
☆令和8年4月研修会
「福井藩の藩主が眠る菩提寺「大安禅寺」と新田義貞の戦死地および柴田勝家の居城北庄城跡、その後の福井城跡などをめぐる」
①萬松山 大安禅寺
大安禅寺は福井市の北西部にあり泰澄大師が1300年前に創建、天正2年に織田信長の越前攻略の際、焼失したが、その後万治元年(1658年)に第4代福井藩主の松平光通により福井藩松平家の菩提寺として建立されたのが大安禅寺で、宗派は臨済宗妙心寺派の禅寺、同寺の本堂裏手の小高い箇所に歴代福井藩主の墓所があり、笏谷石大きな墓石のほか床は千畳敷と言われており同じく笏谷石の石畳となっている。
②新田塚公園
新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼし越前に転戦暦応元年(1338)、新田義貞は藤島城の救援に向かおうとした際、燈明寺畷付近で足利方の黒丸城の斯波高経軍と遭遇、乱戦の中戦死したとされています。明暦2
年(1656年)に農民が鉄兜を掘り出し、これが新田義貞のものと判明し戦死地とされた。[1965年国の史跡として認定される]。福井藩四代藩主松平光通は 万治3年 (1660年)ここを戦死地として碑を建て整備した。それ以降この地が「新田塚」と呼ばれるようになった地です。
③北の庄城址と福井城跡の散策
北の庄城跡は柴田勝家の居城で、秀吉に責められ、お市とともに自害。2人を偲び城跡は柴田神社として社が建てられ祀られているほか、柴田勝家、お市、浅井3姉妹の銅像が建立されている。北の庄城趾からは福井駅前の繁華街を通り抜け、距離にして300mくらい北にある福井城址に行きます。この散策には地元のボランテイアガイドの案内をお願いしてあります。
④柴田勝家・お市の方の“石廟[石祠]”がある西光寺
1489年(延徳元年)に朝倉孫次郎貞景[朝倉家三代目]の家臣・上田兵衛尉景忠が主君の命によって、合戦で戦没した多くの軍兵の亡魂を追善する目的で天台律宗近江坂本西教寺の真盛上人<1443~1495年>を招請し開基として、「岡ノ西光寺」としたことに始まるといいます。 堂供養の時だったそうです。西方から光明が差したことから、お寺の号が「光明山」となった。1573年(天正元年)に織田軍が朝倉を攻めたことにより、朝倉氏が滅亡。その時にこの岡ノ西光寺も焼失。勝家が北ノ庄に移転して再建し、菩提寺とした。
記
1.開催日 令和8年4月26日(日)
2.集合場所 金山総合駅(イオン金山店前)7:50集合・出発
3.費用 会員 10,000円 ビジター 11,000円
4.申込方法 下記申込書を事務局に事前に手渡し、又ははがき・メールで申し込み
5.送付先 446-0044
安城市百石町2-19-7
山本京子 気付
しんあいち歴史研究会事務局
メールアドレス kyoko.y.summer@gmail.com
尚、締切日は、令和8年4月15日(準備の都合上、10日前とさせて頂きます。)
☆バスの席が定員になり次第締め切りとします。
☆自己都合により当日取りやめた場合は、後日2000円を申し受けますのでご了承願います。

